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散文

弥生の予感

2024.02.26

弥生。もう三月がやってくる。2024年がもう2ヶ月も終わってしまったことが恐ろしくてならないのは、私だけではないはずだ。一日の長さも、時間の速さも変わらないのに、社会の処理の速さがぐんと上がってしまって、こぼれ落ちるあれこれを気に留める隙もない。まあ、そんなこともある。

おこめさんが仕込んでいた梅酒がちょうどいい頃合いだ。
もう少し早く梅を引き上げるのが本来らしいのだが、私は少し渋いものが好きなのでこのくらいに引き上げるのがちょうどよく好きだった。華やかな飲み会と縁がなくなって久しく、アルコールを飲むことも最近ではほとんどなくなっていたのだが、一日の終わりにひっそりと、自分の巣穴でのむ楽しさを、この梅酒が思い出させてくれた。漫然とおろける時間は心地よい。
せかせかとしないといけないことを抱えずに、相手にセカセカを強要せずにいたいものだなと感じる。自分で責任を取れる範囲で、身の丈に合ったことをしたい。それ以上のものに携わるときは自分だけではどうにもならないことをしっかりと自覚して、謙虚に静かに取り組んでいきたい。
余裕、という一言で片付けるのは浅はかかもしれないがやはり、余裕がある、という状態は潔くて美しく、憧れる。足るを知るという言葉を胸に、もっともっとと欲張らず、今あるものと整体することで生まれる余裕もありそうだ。


休みを探す生活ではなく、楽しみを見つけて飛びつく暮らしに憧れる。本を読んでみても、詳しそうな人に話を聞いてみても、結局は「休みなさい」の一点張りだから、潔く一切を止めて休んだら変わるのだろうが、その潔さを手に入れられない。そもそも、休みとはなんだろう。どこからが休みと言えるのだろうか。職業としての休み、と、人体としての休み、はまた違う気がするし。「生きる」ということにフォーカスしてしまったら、休んだらその瞬間に死んでしまうことになる。「ちょっとだけ死んでおく」なんて高等技術を人類はまだ手にしていないのだから。
「ちょっとだけ死んでおく」について考えてみようか。
これはきっと一番近いのが冷凍保存的な何かになるだろうと思う。生物としての歩みを止めて、社会時間から自分だけを例外的に切り離す行為だ。昔からSF作品ではよく描かれてきた。一見これが「ちょっとだけ死んでおく」に一番近しいように思われた。しかし、本当にそうだろうか。
冷凍されて本人の時間が止まっているということはすなわち、本人に意識はない。何かしらの処理を経て冷凍されてしまったらその次に瞬間には解凍されてしまう。気持ちよく眠っているわけでもないだろうし、寝覚めは最悪お気分だろうと予想する。さらに知り合いもいないし、知らないシステムで社会が回り始めていたら最悪な気分だろう。成人の体を持って、赤ちゃんに戻るかのようだ。これでは瞬間移動やタイムスリップと変わらない。(なんならもっと疲れそう)
つまり「ちょっと死んでおく」はどうしたって疲れる、ということになる。なんの休憩にもならない。なるほど、人生に休みはないらしい。ここまでしても休みがないなら、私たちが「休み」だとしているものは一体なんだというのだろう。
旅をしたり、美容に励んだり、ぼーっとしたり、食事をしたり。
ここまできて、私は今まで「休み」と仮定してきたものが「休み」とは定義できないように思えてきた。むしろ、プラスアルファのイベントのような、気分転換。
そうか、全ては気分転換なのかもしれない。人は死ぬまで、休むことはない。
これは追い詰めるような切迫した語感ではなくて。素朴に、そのままの意味で、そういうことなのかもしれない。だからこそ、人は自分のご機嫌をとって「生きる」を休まなくて済むような気分転換を、そっと自分に差し出すのだろう。
これが、今の私に導ける、もっとも優しい結論だ。
人生は、長く、漫然としていて忙しない。
相反するようなその体感を気分転換んで上手に繋いで、私たちは、今日も明日も生きていくんだな。

燦々たる日々も散々たる日々も爛漫に。明日もよい日でありますように。

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