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散文

陶器の産声と、春

2024.03.29

春の長雨のちょうど真ん中。
この日を狙ったこのように本焼きの窯が開いて、窯出しがあった。
陶芸に出会ってから、やっと一年。
当時、日々の仕事に溺れていた私は縋るようにこの窯場へ通い、たくさんの人に出会った。
きっと一生宝物になるような、特別なご縁がたくさん詰まった、大切な空間だ。
アフレコがまだ分散収録を主流としていたので、朝に釡へ行く時間があり、夏の終わり頃まではほぼ毎日のように窯場へ通った。
ぎこちなかったろくろでの作陶も、どんどん手が覚え、作業が早くなるのに比例して、窯元の先生にもどんどん詳しくなっていった。
先生はもうすぐ85才になる。
ビートルズが好きで、日本史が好きで、お孫さんのことが大好きなおじいちゃん。
誰とでもよく話し、よく笑う。
若い頃は随分とモテていたらしいのだが、それも納得のかっこよさだ。
先生とのお話も、私が陶芸にのめり込んだ理由の一つだったと思う。

今日は、先生と二人きりでの窯出しだった。
久しぶりの晴れを喜びながら、私は削りを、先生は窯出しをする。
今回の窯には大小20個ほどの作品を預けていたので、私のものが出てくるたびに「コレともよさんのですね~」と先生の声が聞こえ、受け取りに立ち上がる。
開けたての窯はあたたかく、耳をすませばかすかに、ぴんぴん、と陶器の産声が聞こえる。
人間が生まれてくる時とそう変わらない、特別に優しくて幸福な時間。
窯出しの時の先生はさながら助産師で、すべての新しい命を歓迎し、肯定しながら完成品の棚に並べていく。
私が通う窯場は、いわゆる陶芸教室とは違って、先生のアトリエを間借りしているような感じで、釡だけ借りてる人も多い。
陶芸を焼く釡はたくさんの電力を使うから、たとえアトリエを新設しても、併せて新しくおおきな窯をつけるのはたいへんなのだ。
大抵の姉弟子は作陶は自分のアトリエでやって、焼くときだけ先生の窯場へやってくる。
そういう先輩たちの作品も先生は我が子のように愛おしそうに窯からそっとひきあげるのだ。
作家を職業にしている先輩方はそのぶん完成のハードルが高い。
わたしからするとすばらしいような作品を簡単に没にする。
一つ一つにどれだけの時間や労力か費やされているかを知っている身からすると、そのようにストイックに判断できることがすごいとおもうのだが、誰かが何かを没にする度に、新鮮に悲しそうな顔をする先生の心もまた、ものすごいものだなと尊敬が止まらなくなるのだ。
でも先生は言わない。
作家自身が納得しなければどうしようもないということを、いちばんわかっているのだとおもう。
「そうですね、そこにこだわれるのが、〇〇さんのすごいところです」
先生はこんな時、いつも決まってそんなことを言う。
どんなときでも、肯定し、前へ進むことの美しさを、私は先生からおしえられた。そして、変わらず傷つき続けることのうつくしさも。
痛みに鈍感にならず、痛みを拒絶しない。
先生は、そうやって生きている。

ぴんぴんぴん、という産声を聞きながら、わたしは明日からの本焼きに入れる次の作品をしあげる。先生と二人で、先生のおくさまが淹れてくれたお茶を飲みながら、どんな色に仕上げようかと作戦を練るのだ。
釉薬(ゆうやく)を素焼きした土にかけて、色を出す作業だ。
わたしは、作陶よりも奥深く、歴史を感じる技術が詰まったこの工程がすきだ。
一つ一つの色に由来があって、歴史がある。
もちろん市販の、出来合いのものでもいいし、適当に配合して『やいてみるまでわからない」なんてことを楽しんでも良いのだが、わたしは王道を地味に極めていくのが好きなので、古くからの釉薬の歴史ごと楽しみたいし、学びたいと思っている。
教科書のようなものを見せながら楽しそうに釉薬の歴史を語る先生と、はるのおひさまにつつまれて、とてもよい朝になった。
一度帰ってシャワーを浴びたら、現場へむかう。

どんな痛みにも恥ずかしさにも正対し、肯定する強かさを持って努めよう。

燦々たる日々爛漫に
明日もよい日になりますように

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